首の折れたマリア像は語る…長崎被爆者波乱の生涯

北海道札幌市白石区にある「北海道ノーモア・ヒバクシャ会館」には、北海像在住の被爆者たちが持ち寄った様々な資料が展示されている。「首の折れたマリア像」もその一つだ。土を固めて作ったもので、高さ20センチほど。首から上が取れている。全体に白っぽく色褪せているが、ところどころ青い部分がある。かつては青い像だったのかもしれない。寄贈者は、三笠市の久松信行(ひさまつのぶゆき)さん。2003年に79歳で亡くなった後、遺族が寄贈したというが、詳細な記録はない。久松さんはどんな人だったのか?このマリア像とともにどんな人生を送ったのか?それを知りたくて、私たちは三笠に向かった。

市内のキリスト教会でも手がかりは得られない。電話帳にあった番号も使われていない。電話帳に記載されていた住所は、「幌内町1丁目」。行ってみると廃墟が並ぶ中に、1軒の雑貨店があった。大正末期から営業を続ける古い店だ。

3代目店主の太田悦子さん(86)は、久松さんの自宅でマリア像を見たことがあるという。「最初は茶の間に置いてあった。その次に見たときは奥の部屋にあった」。久松さんの自宅はすぐそばだ。しかし…2019年5月、火事で全焼したという。その家に暮らしていた久松さんの孫娘が三笠市内のアパートで暮らしていた。

焼け残った一枚の写真に、マリア像の持ち主は写っていた。久松信行さんは、長崎に原爆が落とされた当時、海軍に所属していた。上官の命令で爆心地に入り、たくさんの遺体の処理作業に従事した。「それで被爆したと思う」孫娘の千葉美知代さんは語る。

マリア像を会館に寄贈した久松さんの妻、ヨシさんも去年他界した。東京に久松さんの息子、好行(よしゆき)さんが住んでいるとわかり、電話取材をお願いした。敗戦後まもなく久松さんは長崎から叔母のいる千葉県で農家を手伝った。農作業は性に合わないと、工場勤めをするが給料が安く、米やイモを錦糸町の闇市で売るようになった。「いつまでもこんな仕事はしていられない」と思っていたとき、街角で、三笠にある「北炭(ほくたん)幌内炭鉱」の坑内員募集の張り紙を目にする。こうして久松さんは北海道で暮らすことになった。

孫の美知代さんはマリア像の存在を知らなかった。美知代さんにとって久松さんは、大の甘党で盆栽いじりが好きな「かわいい、おじいちゃん」だったという。祖父の胸の奥にある苦しみを知ったのは、晩年近くなり、認知症を発症したあとのことだ。「東京は全滅だ」「みんな逃げろ」「おまえたち生きていたのか? よく無事だったな」…まるで自分が戦時中にいるかのような言葉を口にするようになった。「辛かったんだと思います…」

首の折れたマリア像は、長崎の久松家に古くからあったものだとわかった。原爆で父親を失った久松さんが、その後まもなく千葉に移るとき、「もう両親もいないから俺が持っていくぞ」と話していたことも、兄妹の中で唯一存命の妹さんの証言でわかった。首の折れたマリア像とともに戦後を生きた、久松さんの人生…孫の美知代さんは、こう語った。「これまでは、毎年8月6日と9日、今日は原爆の日か、と思うぐらいだったが、首の折れたマリア像の存在を知って、戦争と原爆をしっかり語り継いでいかなければ…また悲惨な戦争が起こったら大変…」

戦後75年がたち、戦争体験者の声に耳を傾ける機会は徐々に減っています。今日ドキッ!では、「戦後75年 北海道と戦争」をシリーズでお伝えしていきます。特設サイトでは動画もみられますので、合わせてこちらもご覧ください。

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