札幌の原爆資料館と被爆者の思い… 10歳少女は何を思う?

小学5年生、安河内佐和(さわ)さんは、2019年の夏休み、「広島の原爆について」という自由研究に取り組んだ。その中で、「札幌にも原爆資料館があると知って驚いた。いつか行ってみたい」と書いている。

あれから1年、札幌市白石区にある「北海道ノーモア・ヒバクシャ会館」を訪れた。佐和さんに、同行取材した。ここには広島市や長崎市から借りた原爆に関する写真や、北海道内に住む被爆者たちが持ち寄った様々な資料が展示されている。民間が運営する原爆の資料館は、全国に二つとない。

爆発時の高熱で溶けたラムネの瓶…。

被爆した23年後になって体内から出てきたガラスの破片…。

首の折れたマリア像もあった…。長崎で被爆した男性が17年前に死亡した後、遺族が会館に寄贈したものだ。

被爆者の焼けただれた背中を写した展示に、佐和さんは同行した母親の手を握った。「辛いけど、頑張って見ようね。本当に起きたことなんだよ」と母親は励ました。

北海道には248人の被爆者が暮らす(2020年3月の統計)。東北6県の被爆者の総数とほぼ同じ数だ。なぜ、北海道に被爆者が多いのか…?

会館の「継承プロジェクト」代表、北明(きため)邦雄さんはこう説明する。

「被爆者に共通する思いとして、被爆した広島や長崎から遠く離れたい、あの日を忘れたい、新しい土地に行けば人生が拓けるかもしれない…という思いがあったのではないか」

戦後75年…被爆者は高齢化している。被爆体験の「語り部」は、年々少なくなり、今は北海道全体で10人もいないという。「被爆者の体験と思いを継承していかなくては…」と、会館では2020年7月、ホームページを立ち上げた。3人の被爆者が体験を語る動画もアップした。今後コンテンツを増やしていく予定だという。また絵本も制作した。「北の里から平和の祈り ノーモア・ヒバクシャ会館物語」だ。長崎で被爆した少女がマリア像を手に北海道に渡り、成長していく姿を描いている。

会館を見学した後、佐和さんは、札幌市内に住む大村一夫さん(79)を訪ねた。大村さんは4歳の時、広島で被爆した。8月6日の朝、大村さんは仲良しだった近所の子供3人と外で遊んでいた。そこに叔母が「朝ごはんだよ」と呼びに来た。大村さんはもっと遊びたかったが、3人の「まだ遊んでいるから早く食べて戻っておいで」という声に背中を押されて、自宅で食卓についた。「そしたら飛行機の音がして、ピカッ!て光った。ものすごい衝撃だった」大村さんは、倒壊した自宅から這って外に出た。街は消えていた。やがて中心部から、血だらけの人たちが走ってきた。ぼろきれをまとったような焼けただれた肌をしていた。「水くれ、水くれ」の大合唱だったという。

しかし、「ヒロシマ」の本当の恐ろしさを大村さんが知るのは、その少し後だった。「五日市(いつかいち)という町の寮みたいなところで暮らしていたときの体験は衝撃的だった。おばさんたちがたくさんいたけど、みんな髪がごそっと抜けるんだわ。それから1週間ぐらいでみんな丸坊主になって、もう1週間したらみんな亡くなった…」この体験は、大村さんの人生にも暗い影を落とし続けた。

大村さんは、国家公務員だった父親の転勤で、小学2年生から札幌に住むようになった。高校は進学校で、同級生たちは「大学はあそこに行きたい」などと話していた。だが大村さんは…「俺はいつ死ぬかわからない…。自分の中で、『努力をすれば報われる』という言葉と、『お前にはもう時間がない』という言葉、この2つの言葉がずっと闘っていた。原爆は、心に大きなショックを与える」

中年を過ぎてから小型飛行機の免許を取るなど、「ようやく前向きになった」という大村さんだが、75年前の友達の声は今も耳を離れない。

「まだ遊んでいるから早く食べて帰っておいで」

3人の友達は原爆で亡くなった…自分は生きた。空しさ、申し訳なさ、やりきれなさ…大村さんは道内各地の小中学校でその思いを語り継いでいる。

戦後75年がたち、戦争体験者の声に耳を傾ける機会は徐々に減っています。今日ドキッ!では、今後も「戦後75年 北海道と戦争」をシリーズでお伝えしていきます。特設サイトでは動画もみられますので、合わせてこちらもご覧ください。

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