札幌中心部の街並みの変化を”絵”で辿る

北海道札幌市の中心部の南1条通り。古くから百貨店や商店街などがあり賑わいを見せたマチの中心部です。精巧に描かれたこの絵は、1955年ごろの南1条通の様子を描いたものです。

この絵を描いたのは、1943年に狸小路近くに生まれ育った吉村政昭さん。マチの姿が大きく変わり始めた1955年、思春期の記憶に刻まれた街の姿を30年かけて趣味で描き残してきました。

そんな吉村さんと、雑誌オトンの編集デスクをで、古い地図から歴史を紐解く連載企画の執筆も行っている、和田哲さんと一緒に、札幌中心部の街並みの変化を辿ります。

札幌のまちづくりは創成川と、南1条通の交差するところから始まりました。この場所は、いわば札幌の基点となった場所なんです。そのため、早い段階から札幌の経済と文化の中心地として栄えた歴史がありました。

西1丁目の南側には小さな商店が並んでいましたが、中でも中小路の角にある薬屋は当時の姿をそのまま残しています。実はこの薬屋のある区画だけ歩道が狭いのがわかりますか?実はこの通り自体が昔は狭かったんです。

吉村さん「南1条通りの道幅が今の薬局までしかなかった。通り自体が昔は狭かった。市電も通っていて軌道の分車道が無く、なおさら狭く感じた」

北側の西角にあったのが、昭和30年代では数少ない娯楽のひとつだった映画館でした。2003年、平成15年までここにあったのが日本劇場(映画館)です。映画会社直営の「封切館」だったため、映画公開日には多くの人が押し寄せました。当時の新作映画は、まず系列の封切館と呼ばれる映画館で公開され、およそ1か月遅れで2番館と呼ばれた系列外の映画館で上映されていたんです。

続いては、食堂や文具店などが並ぶ西2丁目。今も手芸や洋裁の材料などが売られている「カナリヤ」も、この時期からあったんですね。

北側に目を向ければ当時の札幌のランドマークとも言える、丸井今井札幌本店があります。昔の写真を見ると、屋上に塔が立っているのがわかりますね。今とは全然違う建物にも見えますが…実は、建物自体はまったく同じなんです。1926年、大正15年に建設され、今も使われている丸井の建物。その屋上にかつてあった塔が果たした役割とは…。

吉村さん「札幌飛行場というのが、今の札幌北高校がある北24条付近にできた。その時に、この塔が札幌の目印になるために、飛行機の灯台の役割をしていたんです。それを当時の軍から委託されて作ったと言われています」

当時丸井の建物が一番高かったため、屋上に灯台が建てられたということです。夜にはライトで照らされて、50キロ以上離れたところからも確認できたというから驚きです。

丸井周辺をまわる定番の買い物コースもありました。三越や丸井に立ち寄った後、狸小路をまわって戻ってくるこの買い物ルートは「黄金回廊」と言われ、当時から多くの人でにぎわっていたと言います。

商業ビルが並ぶ西3丁目。南側には文房具などが売られる「大丸藤井セントラル」が。この場所にかつてあったのは、HBC北海道放送です。

吉村さん「いわゆる街頭テレビとしてHBCのニュース映画をやっていた。見ていて10分くらいで終わる番組。勿論ドラマとかはやっていなかった」

今はパルコがある場所付近には、小さな間口の狭い建物がたくさんあります。中でも有名なのが「富貴堂」という北海道で一番の書店でした。

吉村さん「小中高の教科書は富貴堂で売っていました。書店のほかに2階には楽器売り場がありました。オーケストラで使うような楽器で、僕らの時代に誰が買うのかと疑問でした」

この写真は今の三越。昔は今の建物の半分くらいしかなく、一部は北陸銀行の建物だったのは知っていましたか?

北陸銀行の建物は焼き過ぎレンガという種類のレンガで造られていて、アーチもある洋風のつくりでした。今も残っていたら、観光名所になっていた可能性もありそうですね。

最後に紹介するのは駅前通と南1条通との交差点。ここでは2本の市電の路線が交差し、今もその名残で「十字街」という名で呼ばれています。とにかく多くの人がここで降りるため、常に賑わいがありました。そんな賑わいを見せたマチも、時は流れ、建て替えが進み人の流れも変化しました。

吉村さんの絵が描かれた時代から64年。今も残る建物はあるものの、ほとんどが入れ替わり、街並みが一変しました。東京と比べて遜色ないほど街並みが変化してきた札幌の姿からは、街の発展とともに、街並みを残していくということの大切さも感じられます。



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